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特別連載

「サメと桜のアーティスト、ダミアン・ハースト:2022年のメメント・モリ(死を思え)」ロンドン発信、バンクシー本の著者が見た現代アート#10

特別連載

あの覆面アーティストを街の文脈から読み解いた『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』の著者・吉荒夕記の連載記事。ロンドンを知り尽くしアートや文化の旅づくりも手掛ける筆者が見た、アートの最前線とは。


東京で開催中の「ダミアン・ハースト 桜」展の目玉は桜をモチーフにした艶やかな大作だ。ハーストといえば、サメのホルマリン漬けのようなショッキングなアートで有名だが、今回の桜作品の美麗さの奥には、初期の過激な作品と共通するテーマが隠れている。ハーストが作品を通してわたしたちに問いかけていることは、今のコロナ禍の社会に深く響くようだ。

東京の「桜」とロンドンの「自然史」

お花見の季節。東京の国立新美術館の中も桜で満開だ。英国の現代アーティスト、ダミアン・ハーストの展覧会、その名も「ダミアン・ハースト 桜」展。時を同じくして、ロンドンにあるガゴシアン・ギャラリーでは、「自然史」と題した個展が開催中だ。前者は花、後者はアニマル。前者が、ハーストが近年取り組んでいる油彩の大作シリーズであるのに対し、後者は1990年代、YBAs(ヤング・ブリティッシュ・アーティスト)(※1)の代表として、一躍有名になった頃のセンセーショナルなインスタレーション作品に焦点があたる。制作時期も制作形態も作品から受ける印象も全く異なるが、死という同じテーマを一貫してパワフルに問いかけてくる。日本での桜シリーズを楽しむためにも、ハーストの初期作品との関連性をみてみよう。

ダミアン・ハースト展示
展示場全体(筆者撮影)

ガゴシアン・ギャラリーの中央に位置するもっとも大きな展示室に入ると、いきなり巨大なサメに出くわす。ハーストのアイコン的な作品なので、読者もどこかで見覚えがあるかもしれないが、本物を目の前にするとやはり圧倒的だ。鋭い歯が並ぶ口を大きく開け、今にも観る者をひと飲みにしてしまいそうな迫力がある。その一方、作品の脇で若者たちがサメと一緒に自画撮りしているのを見ると、どこかシュールですらある。そんなことができるのは「超有名な」作品だからという以前に、そのサメがすでに死んでおり、こちら側に死のリスクがないことが自明だからだ。サメは深海で泳いでいるかのように、エメラルド色のホルマリン液に漬けられたまま、15年の歳月を過ごしている。生きていた時の形をとどめ、サメ特有の質感や色を残した皮膚をまといながら。会場を見渡せば、その周りにも、羊、牛、鳩、鴨、魚など、同じような動物の死体のホルマリン漬け作品が並んでいる。まるで、博物館に展示された標本のよう。当展覧会のタイトルが「自然史」である所以だ。

《拒絶された死》(2008)(筆者撮影)

動物の死体に込められたカトリック的なるもの?

巨大な牛の頭と体が切り離された作品も、観る者に強い衝撃を与える。頭は、首の断面を見せながら、肉屋の厚いまな板の上に横たわり、さまざまな刃型の業務用包丁が並んでいる。そばには時計の針が動いていて、今の時間を正確に刻んでいる。首が刎ねられた直後、時はとまったままなのに。まるで、舞台のシーンの一瞬を切り取ったようだ。生と死。時間と永遠。メッセージは実にストレートで、ブラックユーモアで裏打ちされている。見せ方はショッキングで恐ろしいが、同時にクリーンな印象を受ける。それは、首の断片にも包丁にもまな板にも、血が一点もないからか。ホルマリンのおかげで、体に腐敗の跡がみられず、体毛もきれいな白色のまま保存されているからか。作品を覆う枠の白や、ホルマリン液のエメラルド色の爽やかな印象からだろうか。そこに、死そのものを美しく描こうとするアーティストの意図がみてとれる。

ダミアン・ハースト展示
《洗礼者ヨハネの断頭》(2006)(筆者撮影)

作品のタイトルは《洗礼者ヨハネの断頭》。なるほど、衝撃的な表象の裏に、実は伝統的な美術のテーマが潜んでいるのだ。聖書に書かれたこのテーマは、15世紀の画家、ルーカス・クラナッハや17世紀の巨匠カラヴァッジョをはじめ、これまでたくさんの画家たちが手がけてきた。下の写真は、サロメの策略によって洗礼者ヨハネの首は刎ねられ、皿に載せられて、ヘロデ王の食事のテーブルに運ばれる様子を描いたクラナッハの作品。ヨハネの生首を料理の一品として宴に供するという、ハーストに負けずとも劣らない残酷な内容だ。

ところで、片親の元で育ったハーストは親を悩ませた悪ガキだったそうだ。だが、美術の成績だけは秀でていて、ロンドンの美術大学で学ぶことができた。正統な美術教育の中で、過去の巨匠たちの作品をたくさんみたり、学んだりしているのは疑うまでもない。さらに、実はカトリック教徒として育てられたと、本人が明らかにしている。つまり、ハーストの表現テーマには、幼少時から慣れ親しんだ文化的背景があるのだ。

ヘロデの宴
《ヘロデの宴》(1533) ルーカス・クラナハ(父)(シュテーデル美術館/引用

コロナを体験した社会に響く桜並木

そうして会場全体を再び眺めてみれば、どの作品の根底にもそのような宗教観や死生観が流れているのがみえてくる。羊の死体が腹から裂かれ、両脚を広げた状態で固定され、吊り下げられたまま、ホルマリン漬けになった3点の作品《父の名において》も、ひいてみれば、キリスト磔刑を描いた伝統的な三連画(※2)を示唆していることがわかる。

ダミアン・ハースト展示
《父の名において》(2005)(筆者撮影)

磔刑
《磔刑》(1555)ティントレット (ソウマヤ美術館所蔵/ 引用

中央の羊がイエス・キリスト、左右の羊は一緒に処刑された悪党たちということか。吊り下がった体も、頭の項垂れ方も典型的な磔刑画を思わせる。加えて、羊といえば、人間の原罪を背負って犠牲になったイエス・キリストを象徴する動物だ。さらには、3点作品の頭上には白い鳩が翼を広げて、やはりホルマリン漬けになっている。こちらも、宗教画の文脈では「聖霊/ホーリー・スピリット」(※2)を示唆するのは疑う余地がない。エル・グレコが描く《三位一体》でも、死んだキリストとその体を支える父なる神の頭上に、精霊の白い鳩をみつけることができよう。

ダミアン・ハースト展示
《父の名において》一部(2005)(筆者撮影)

三位一体
《三位一体》(1577-79)エル・グレコ (プラド美術館所蔵 / 引用

ダミアン・ハースト展示
《平和》(2009)(筆者撮影)

この作品を美術史的にさらに深堀りしてみれば、もうひとつの繋がりもみえてこよう。例えば、腹を切り裂かれ、吊り下げられた動物の体は、有名なレンブラント・ファン・レインの《屠殺された牛》を思わせる。なぜ、レンブラントはそんなものをモチーフにして、画面いっぱいに描いたのか。その背景には、ヨーロッパの文化人・知識人たちの間で流布した思想「メメント・モリ」(ラテン語で「死を思え」の意味)がある。その思想に基づき、絵画の中でも、骸骨や死神を描いたり、時計や蝋燭を限りある命のシンボルにしたりした。ハーストが尊敬した20世紀の英国人画家、フランシス・ベーコンも、レンブラントの影響を受けて、似たようなモチーフを描いている。長い美術の歴史の中で、違う時代に違う国で活躍したアーティストたちの作品に連綿と横たわる思想であり、その延長上にハーストも21世紀のメメント・モリを自分なりに表現しているといえないだろうか。

屠殺された牛
《屠殺された牛》(1655)レンブラント・ファン・レイン (ルーヴル美術館所蔵/ 引用

振り返って、今回日本で公開されている一連の最新作品にも、同じテーマが横たわっている。桜はその儚さゆえに、古来日本では死と結び付けられてきた。西洋でも、例えば17世紀美術では、桜に限らず、枯れる運命を免れない花を描いた絵は、やはりメメント・モリを表していた。今回のハーストの作品は、実際の桜並木のようなスケールをもっている。数日で散る花を描きながらも、絵画自体は半永久的に残る。コロナ禍を経験し、死が身近にある今日だからこそ、その天蓋の下を歩きながら、圧倒的な美しさの向こうにあるハーストのメッセージに声を傾けてみてはどうだろう。

(※1)
1992年ロンドンのサーチ・ギャラリーで開催された同名の展覧会から名付けられた。その展覧会は大成功を収め、ハーストの他、トレーシー・エミン、サラ・ルーカスなど若手のアーティストたちを世界的なスターダムにのし上げた。
(※2)
教会の祭壇画の形態のひとつ。三つのパネルで構成され、中央と左右のパネルに描かれた題材がそれぞれ呼応している。
(※3)
宗教画の中で、白い鳩は聖霊を意味する。父なる神、子であるイエス・キリスト、聖霊の3体を三位一体とするキリスト教の基本的な思想。


前回の連載記事と「ダミアン・ハースト 桜」展レポートはこちら

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【PROFILE】吉荒夕記 
1959年生まれ。2007年ロンドン大学大学院美学学部卒。学術博士取得。大英博物館アジア部門にてアシスタント・キューレターとして勤務。2012年、ロンドンを拠点にアートローグを設立。文化の旅の提案やコーディネート業をしながら、ミュージアムにて在英邦人向けに歴史・美術史を教える。また、ミュージアムの社会的な意義やストリートアートのメディア的な役割に関心を寄せ、執筆活動を続ける。主著『美術館とナショナル・アイデンティティー』(2014年/玉川大学出版部)、『バンクシー:壊れかけた世界へ愛を』(2019年/美術出版社)