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特別連載
キース・ヘリング

「キース・ヘリングとバンクシーが共通すること」ロンドン発信、バンクシー本の著者が見た現代アート#12

特別連載

あの覆面アーティストを街の文脈から読み解いた『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』の著者・吉荒夕記の連載記事。ロンドンを知り尽くしアートや文化の旅づくりも手掛ける筆者が見た、アートの最前線とは。


バスキアと並びストリートアートの先駆者といわれるキース・ヘリング。彼の表現やメッセージには、バンクシーに共通することが多々ある。ヘリングが有名になる前の活動をみながら、二人の共通点を探りつつ、なぜ彼らが路上で活動してきたのかを考えてみよう。

バンクシーの犬はキース・ヘリングから借りた

バンクシーの有名な作品のひとつに、フーディーを着た青年が犬を鎖につないで散歩をしている絵がある。通称「吠える犬」という。もともとは、南ロンドンの街の外壁に描かれたストリートアートだった。一見、日常的なシーンだが、イギリス人が目にしたら、あれっと思うことだろう。というのは、イギリスの犬は吠えないのだ。語弊のないように書き加えれば、この国では犬の躾けが徹底しているため、こんな風にギャンギャンする犬は街でほとんど見かけない。つまり、バンクシーの犬は躾けられていない=飼い主がルーズと読み解かれる。なるほど、フーディーやバンダナで顔を隠し、どこかチンピラっぽい若者だ。ひょっとしたら、飼い主の攻撃的な性格を犬が代弁しているのかもしれない。

banksy mural

無題(2015?)(引用元

この作品の面白さは、犬と青年の描き方の違いにある。青年は黒スプレーのステンシルで、影をつけて立体的に描かれているのに対し、犬の方は黒の輪郭線とベタ塗りの白で平面的に描かれたシンプルなイメージ。前者はバンクシー得意の技法だが、後者は、実はバンクシーの大先輩にあたる、80年代にニューヨークで活躍したキース・ヘリングの有名なモチーフなのだ。アニメのような単純な線で描かれた人物やハートのマークなど、読者もどこかで見かけた事があるのでは。

キース・ヘリング

Tony Shafrazi Gallery, SoHoでのキース・ヘリング展 © Allan Tannenbaum(引用元

ヘリングもバンクシーと同じように、有名になる前はストリートを活動の場としていた。もっといえば、過去の記事で紹介したジャン=ミッシェル・バスキアと並び、ストリートアートの先駆者の一人なのだ。犬以外にも、バンクシーに影響を及ぼしたことがある。前置きが長くなったが、今回の記事では、ヘリングが有名になる前の路上時代の活動から、ふたりの共通点を探ってみよう。そこに彼らが路上で活動をする理由があるからだ。

紙上から路上へ

幼い頃から絵やアニメが好きだったヘリングは、1970年代の終わりにニューヨークの美術学校School of Visual Arts (SVA)に入学する。そこでは、コンセプチュアル・アートやビデオアートなど、当時としては最先端のアート表現が教えられていた。若いヘリングがインスピレーションを受けたのは美術学校だけではない。彼が住んだニューヨークのイーストビレッジそのものがインスピレーションの泉だった。

その下町には、アメリカ中からアーティストやその卵たちが集まってきた。あたりの家賃は安く、お金のないアーティストたちのコミュニティーが育つ環境でもあった。1960年代末には、実験劇場、アヴァンギャルドな映画館、詩の朗読、ヒップホップなど、さまざまなジャンルが融合し、独自の文化が栄え始めていた。若い表現者たちのエネルギーは大きすぎて、従来の展覧会場のキャパを超えていたし、そもそも彼らには場所を借りるお金などない。また、彼らは伝統的なアートの権威やアカデミズムに異を唱えていた。エスタブリッシュされた立派な画廊ではなく、手頃に使える空きスペースや路上が表現の場になるのも、必然のなりゆきだったのだろう。

美学校でのヘリングはビデオアートやパフォーマンスに関心を注いだという。その一方で、常に何かを描く手は止まることがなかった。注目したいのは、自分が描く行為をパフォーマンスとしてカメラに収めた映像だ。小さな部屋の床一面に紙を敷きつめると、映像の中のヘリングは一筆描きのような動きでアブストラクトな黒い線を繋いでいく。まるでオーガニックな生き物が自ら増殖するように。線で床の紙を埋めてしまうと、片隅の白く残ったところに猿のように座り、こちらに視線を向けるところで映像は終わる。プランも下絵もなく、いきなり描き始めると、躊躇することもなく最後まで描ききってしまう。ジャクソン・ポロックのアクションペインティングや日本の書道を思い起こさせる動きだ。ところで、ヘリングのその仕事部屋のドアは、物理的に外の道路につながっていたのだが、やがて、彼が描く線の生き物は戸外にまではみ出していくのである。

キース・ヘリング

《painting myself into a corner》(1979)(引用元

ニューヨークの地下鉄で脚光を浴びる

1980年、彼はニューヨークの地下鉄プラットフォームの空いた黒壁に、白チョークで線描画を描き始めた。その様子を友人のCheng Kwong Chi がカメラに収めたのである。非合法の活動だから、壁に残した作品は剥がされることは最初からわかっていた。警察当局によって捕まった事もある。だから写真に残したのだ。オリジナルの場所で残らないものを記録に留めるために。逆に、その一連のことが彼にとってはその場かぎりのパーフォーマンスだったのだろう。やがて、すぐに衆目を浴びるようになり、メディアでも紹介され、彼の名を一躍有名にしたのである。これもはじめから計算済みだったかもしれない。

地下鉄キース・ヘリング

NYCの地下鉄で制作中のヘリング(引用元

実は、ここにバンクシーが学びとったことがある。バンクシーも路上に残した作品を友人の写真家に撮らせて、それをまとめて本にし、自費出版している。また、有名な美術館の壁にゲリラ的に自分の作品を設置した時も、館内の防犯カメラに常時撮られていることを逆手にとって、TVニュースで流れたその映像を自分の本の中で借用している。また、これがイギリスの主要メディアがバンクシーに注目し始めた最初だった。

バンクシー:テートブリテン

テートブリテンでのバンクシー(引用元

街行く人に開かれたアート

ところで、街にアートを描く理由は、実はちゃんとしたギャラリーを借りるお金がないからだけではない。ヘリングは次のようにいう。

「たくさんの人が立ち止まって、見て、僕と議論してくれるんだ。同じ作品に対して違う意見やアイデアやコメントを聞くのは、そりゃ、素晴らしいよ。その人たちのほとんどはね、美術館に行くような人じゃない。無視されてる(※)人々がいるんだ、だからってそのひとたちが無知なわけじゃない。アートがその人たちにも開かれていれば、彼らもアートに心を開くんだよ」

確かに、アート(特にハイアートといわれる、権威ある美術館で目にする芸術)には、庶民には敷居の高いところがある。美術館に行くのは、高学歴、高収入の人たちと相場が決まっている。それ以外の圧倒的な数の人々とアート界との乖離を、ヘリングは強く懸念しているのだ。誰もが親しみやすいアニメの要素をとりいれるのも、その理由からかもしれない。そして、バンクシーの活動の根底にも、ヘリングと同じようにお高く留まったアートを市民にもっとオープンなものにしたいという願いがある。

さらに、ヘリングとバンクシーの作品に共通するのは、親しみやすい絵柄の後ろに政治的なメッセージがはっきりと込められていることだ。ヘリングの場合は、AIDS、人種差別や性的マイノリティーに対する人権活動(ヘリング自身がゲイであり、1990年31歳でAIDSにより亡くなっている)、核の脅威、戦争に対する反対などが挙げられるし、バンクシーも、人権問題や平和への願い、監視社会、権威主義、環境問題など、現実的なメッセージを路上に残して、一般の人々に直に問いかけている。

キース・ヘリング

《無題》(1989)© Keith Haring Foundation(引用元

そうしてみると、最初にみた《吠える犬》は、何を言おうとしているのだろう。二人のアーティストの作品では、犬は警察などの権力の象徴として揶揄的に描かれることが多いのだが、この絵の場合は、路上のアーティストたちが権威あるハイアートに歯向かう姿勢を示しているのかもしれない。

(※)美術界ではターゲットにされていないという意味と捉えて良いだろう


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【PROFILE】吉荒夕記 
1959年生まれ。2007年ロンドン大学大学院美学学部卒。学術博士取得。大英博物館アジア部門にてアシスタント・キューレターとして勤務。2012年、ロンドンを拠点にアートローグを設立。文化の旅の提案やコーディネート業をしながら、ミュージアムにて在英邦人向けに歴史・美術史を教える。また、ミュージアムの社会的な意義やストリートアートのメディア的な役割に関心を寄せ、執筆活動を続ける。主著『美術館とナショナル・アイデンティティー』(2014年/玉川大学出版部)、『バンクシー:壊れかけた世界へ愛を』(2019年/美術出版社)