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特別連載
バスキアDowntown81

「バスキアがキャンバスに描き始めるまで」ロンドン発信、バンクシー本の著者が見た現代アート#9

特別連載

あの覆面アーティストを街の文脈から読み解いた『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』の著者・吉荒夕記の連載記事。ロンドンを知り尽くしアートや文化の旅づくりも手掛ける筆者が見た、アートの最前線とは。


驚愕的な高値がつくアーティスト、ジャン=ミシェル・バスキア。彼をアーティストにさせたのは、貧困や人種差別など負の側面だった。アート界の寵児になる前、どんな表現活動をしていたのか、有名になってからの作品にどのような影響を与えたのか。答えを探る事は、バスキアの魅力を理解する事に繋がる。

バスキアが生きた時代のニューヨーク

道には瓦礫が散らばり、壊れた壁やシャッターは落書きだらけ。家々の扉は閉じ、窓はがらんどうで、人が住んでいる気配がない。暇を持て余した若者たちが昼間から飲んだくれ、空き家の軒下にはホームレスが寒々と横たわる。1970年代のニューヨーク、ダウンタウンの典型的な光景だ。アメリカの経済は急激に悪化し、大都会の片隅の貧しい街をますます荒廃させた。そんな街の路上こそが、30年後のアート市場で驚くような高値で売り落とされるアーティスト、バスキアを形成したのである。

1960年、彼はハイチ系移民の家庭に生まれた。中流階級の家庭ではあるものの、社会の不正・不平等を日常的に感じながら、生き抜いていたに違いない。その一方で、ウーマンリブ運動や黒人解放運動、ゲイの人権擁護活動などに象徴されるように、差別された人々が権利を求めて声を大にした時代でもあった。ティーンエイジャーになったバスキアは、両親の不仲という家庭環境や、馴染めない学校生活から逃げるように街に出て、友人たちの家を転々とした。そんな彼にとって、街こそが学校だった。地べたで生きながら社会を観察し、カウンター・カルチャーに出会い、自分の頭で考え、アーティスティックな表現するようになる。その舞台も当然路上だった。

路上のアーティストを追うカメラ

映画『ダウンタウン81』(2000)の中で、21歳のバスキアは、茶色の紙袋を下げ、タバコを吸いながら道を行く。うなだれもせず、真っ直ぐ前を見て、しっかりした足取りで。街が自分の一部か、自分が街の一部のように、その姿はダウンタウンの風景に溶け込んでいる。俳優としての経験も訓練も皆無なのに、すんなりカメラに入り込み、自然体でいて、自分を崩さない。フィクション仕立てだが、若いアーティストを追うドキュメンタリー映画といってもよい。

映像の中でバスキアはふと立ち止まり、紙袋からスプレー缶を出すと、いきなり外壁に文字を書き始める。缶をもつ手は迷いも躊躇もなく、あっという間に書き上げてしまう。そして、再び歩き始め、シャッターやドアなど他の隙間を見つけては、また違う文言を書く。その一連の動きがダンサーのようにスムーズだ。被体を見つけた瞬間に、どの位置にどの大きさで、何をどう書くか、彼の脳裏にパッとイメージが浮かび、それをそのまま行動に移していると思えてならない。演出もちゃんとしたリハーサルも、おそらくないのだろう。それがいつものバスキアの制作スタイルであり、まさにニューヨークという街自体をキャンバスに、制作するアーティストの動きなのだと思われる。

バスキアDowntown81

Downtown 81のセットに居るバスキア (Photo: Edo Bertoglio/New York Beat Films/Courtesy Maripol)
出典:https://www.theguardian.com/

SAMOって誰?

グラフィティだらけの外壁で、バスキアが残したものは、圧倒的に街行く人の目を引いた。まず、ほかのグラフィティがカラフルな色を使い、スタイリッシュすぎて判読不能なのに対し、バスキアの文字は黒一色で、読みやすい大文字で書かれてあること。そして、グラフィティが書くのは基本的にタグ(作者の偽名)であるのに対し、バスキアの方はメッセージ性のある文だ。

SAMO©️ (※1)
ANOTHER DAY
ANOTHER DIME (※2)
HYPER COOL」
ANOTHER WAY (※3)
KILL SOME TIME

簡単な英単語を使った短文だが、謎解きのようで、格言のようで、恨み節のようでもある。しかし、声にだして読んでみれば、韻を踏んでいることがわかる。グラフィティというより、ナンセンスな詩だ。意味を故意にずらし、テンポよく、余韻を残す。その手法には、当時アメリカで人気を博したビート・ジェネレーション(※4)のカットアップ(※5)の影響がみてとれる。あるいは、黒人コミュニティーで広がり始めていたラップにも似ている。SAMOの残した言葉には、時に、単純な絵も付け加えられた。メッセージには反体制的なニュアンスがあるにもかかわらず、どこか冷めた、と同時に子どものように率直な表現は、当時のニューヨークの若者たちの心を掴んだことだろう。

バスキアSAMO

Photo :Henry Flynt
出典:http://www.henryflynt.org/

数の多さと不可解さ、そして匿名性ゆえに、SAMOは瞬く間に街の噂となった。やがて正体が見抜かれると(実は高校時代の同級生アル・ディアスとの共作だった)、「SAMOは死んだ」という言葉を街に残し、SAMOという殻を脱ぎ捨て、今度は本名であるバスキアとしての活動に移していくのである。しかも、路上ではなくキャンバスの上に、ギャラリーという空間で。

ところで、バスキアがいつも持ち歩いていたノートが残されている。紙の上にも、路上の言葉のように、意味をずらした文言が綴られているのだが、内容だけではなく、余白のとり方、行替えの仕方、暗号めいた記号にも、言語への強い関心が窺える。ノートは彼のスケッチであり、思考訓練だったのだろうか。いや、モーツアルトの楽譜のような完成度の高さをみれば、ノートそのものが作品といってもよいくらいだ。バスキアの脳裏には、いつも詩的な言葉遊びが繰り返されおり、それを他者の目に触れさせたくて、戸外を歩きながら、壁にそれを吐き出したのかもしれない。

バスキアUntitled Notebook Page1980-81

《Untitled Notebook page》(1980-81)
出典:https://www.theguardian.com/

学校なんかで美術を学んでいない

「美術の学校なんか行ったことはないよ。ただ、見てただけ。アートを学んだとしたら、そんなところさ」とバスキアは語る。黒人のための教育機会は限られていた。特に美術教育はその傾向が強かった。もとよりアート界全体が白人至上主義だったといってよい。アーティストも白人なら、鑑賞する者も購入する者も白人。何よりアートは何かを決めるのは白人だった。バスキアがいう、「そんなところ」とは、ひとつは先述のようなニューヨーク下町のカウンター・カルチャーだろう。そして、もうひとつは美術館なのだ。

美術館を訪れる人の大半は白人層で、非西洋人には敷居の高いところだった。だが、バスキアの母親はアートが好きで、息子が5歳の頃からギャラリーに頻繁に連れて行った。ティーンエイジャーになってからも、美術館に通い続けた。当時のガールフレンドは、バスキアは「美術館の隅々、アーティストや作品の隅々までよく知っていた」と語る。また、インタビューでは、好きな現代アーティストとして、サイ・トゥオンブリ、フランシス・ベーコン、フランチェスコ・クレメンテ、エンツォ・クッチなどの名前を上げている。

学校で理論も技法も、現代アートの系譜も学ばなくとも、美術館やギャラリーに通い、自分の目で感じ、吸収し、伝統に縛られることなく、自分の表現を生み出していった。と同時に、路上で学びとった事も表現の中で見事に融合させた。キャンバスに描いた作品でも、文字が絵と同居する。NYの路上文化の空気を吸ってアーティストになったバスキアの表現に、言葉や絵、音楽、映像など、ジャンルの境界などないのだ。しかし、媒体がなんであれ、彼が表現するものの根底に一貫して流れているのは、社会の不平等や人種差別に対する、黒人青年としての眼差しである。

バスキアkingzulu

《King Zulu》(1986) (引用元
出典:https://www.theguardian.com/

(※1):タグにあたる
(※2):アメリカの俗語でドルを指す
(※3):数字の2は「to」を意味する
(※4):1940年代末から60年代のアメリカで一世を風靡した文学運動や行動様式。規範的な服装や行動を嫌い、性やドラッグに開放的で、経済的物質主義に対する抵抗運動が特徴。代表的な詩人に、アレン・ギンズバーグやウィリアム・バローなど
(※5):テキストをバラバラにして、組み立て直す制作方法


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【PROFILE】吉荒夕記 
1959年生まれ。2007年ロンドン大学大学院美学学部卒。学術博士取得。大英博物館アジア部門にてアシスタント・キューレターとして勤務。2012年、ロンドンを拠点にアートローグを設立。文化の旅の提案やコーディネート業をしながら、ミュージアムにて在英邦人向けに歴史・美術史を教える。また、ミュージアムの社会的な意義やストリートアートのメディア的な役割に関心を寄せ、執筆活動を続ける。主著『美術館とナショナル・アイデンティティー』(2014年/玉川大学出版部)、『バンクシー:壊れかけた世界へ愛を』(2019年/美術出版社)