
「バンクシーを生んだブリストルってどんな街?」ロンドン発信、バンクシー本の著者が見た現代アート#6
あの覆面アーティストを街の文脈から読み解いた『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』の著者・吉荒夕記の連載記事。ロンドンを知り尽くしアートや文化の旅づくりも手掛ける筆者が見た、アートの最前線とは。
バンクシーはその型破りな表現、権力にもの申すバイタリティーと弱者に対する慈愛の精神で知られるが、そのような特徴は彼の故郷ブリストルの文化風土ともつながる。ブリストルがバンクシーを生んだといってもおそらく過言ではない。ブリストルとはいったいどんな街なのだろう。
大西洋に面した港湾都市
ロンドンから特急列車で1時間半ほど西に向かうと、ブリストルに到着する。人口46万人ほどの都市の中心は、ブリストルを歴史的に繁栄させてきた港湾だ。周囲を見渡せば、緩やかに丘が伸び、斜面にはカラフルな家々が点在している。視線を下ろすと、個性豊かなヨットやボートが水に浮かび、波止場にはしゃれたカフェが並んでいるその街は、明るく開放的でエネルギッシュな街という印象を受けることだろう。

船着場のすぐそばに、アーノルフィニ(Arnolfini)という現代アートの公的なギャラリーが建っている。かつては船荷を下ろしていたレンガ倉庫を改装したものだ。1985年、ここで「ストリートアート」の展覧会が行われた。当時まだ目新しいジャンルだったストリートアートをテーマに、ブリストルの大型美術館で開催された初めての展覧会である。それは通常のギャラリー主導の企画ではなく、ロバート・デル・ナジャ(通称:3D 以下、3Dとする)という青年を中心にした若者グループの持ち込みの企画だった。

アーノルフィニ 出典:https://en.wikipedia.org/
実は、ブリストルにニューヨークのグラフィティ文化を持ち込んだのは3Dであり、1980〜90年代のユースカルチャーに強い影響を与えたグラフィティライターなのだ。音楽にも秀でた3Dは、今や世界的なバンドとなった「マッシブ・アタック」(Massive Attack)を結成したことでも知られている才能豊かなアーティストである。
読者の中には、覆面アーティスト・バンクシーの正体はこの3Dだと噂された事があるのをご存知の方もいるかもしれない。いずれにしても、バンクシー自身も自分がティーンの頃は3Dに強い影響を受けたと公言している。言い換えれば、バンクシーが登場する以前に、ブリストルにはグラフィティやストリートアートのムーブメントが起こっており、バンクシーは時代の空気の中で育った第二世代なのだ。

ブリストルのアンダーグラウンド
この都市の1980年代の若者文化は、「ブリストル・アンダーグラウンド・シーン」といわれる。その名のとおり、メインストリートに構えたシアターやコンサートホール、ミュージアムなどを舞台とせずに、使われていない倉庫や空きビルなどに音響システムを持ち込んで、音楽を演奏したり、ブレークダンスをしたり、グラフィティを描いたり、ポエトリーリーディングを行ったりという、自然発生的なムーブメントが若者たちの間で流行し、自己表現と交流の場となった。
ブリストル・アンダーグラウンド・シーンの特徴のひとつは、3Dがまさに体現するように、音楽とアートが密接につながっていることにある。
音楽では、ヒップ・ホップを母体としながら、レゲエ、パンク、ジャズ、電子音楽が融合し独特なブリストル・サウンドがつくられた。マッシブ・アタック以外でも、トリッキー(Tricky)やポーティスヘッド(Portishead)などのバンドが生まれ、今やイギリスを超えて世界を活動の舞台にしている。アートでは言うまでもなく、グラフィティやストリートアートだ。バンクシーの他にも彼の古い仲間であるインキー(Inkie)やニック・ウォーカー(Nick Walker)、チャバ(Cheba)などが現役で活躍している。
もうひとつの特徴は、彼らの表現の根底に、世の中を少しでもよくしたいという若者たちの主体的なアクティビィズムがあることだ。1980年代のイギリスはサッチャー首相率いる保守党政権で、国全体の経済は停滞し、地方都市ブリストルにも大きな影響をもたらしていた。現状に不平不満を持った若者たちは、若いエネルギーのやり場を音楽やアートに求めたが、単なる吐口ではなく、強い政治的なメッセージを込めていたのである。
40年を経た今も変わらず、政治に対する強い関心は彼らが生み出すひとつひとつの表現に色濃く残っている。例えばマッシブ・アタックは、近年、エクステンション・リベリオンという絶滅危惧種の動物保護活動に関与しているし、コロナ禍で世界が停滞した2020年にあっても、気候変動をテーマにしたEPをリリースした。同様にバンクシーもエクステンション・リベリオンや気候変動、BLMなど常に時事的な政治問題に関心を寄せている。彼らが同一人物かどうかは別にしても、それは彼らの母体が、ブリストル・アンダーグラウンド・シーンにあるからだといえよう。
負の歴史への共闘
ではなぜ、こうした反抗のサブカルチャーがブリストルで生まれたのだろう。答えは冒頭の港にある。大西洋に面する立地条件から、18世紀には北アメリカとアフリカ大陸を結ぶいわゆる三角貿易で潤ったが、その中心は直接的、間接的に奴隷制に関わる貿易だった。非人道的な制度そのものは19世紀はじめに撤廃されたものの、負の遺産は未だに爪痕を残し、有色人種に対する差別や人権問題が後を絶たない。抑圧された人々や彼らに寄り添う人々は草の根的に声を上げ、レジスタンス運動を展開してきたし、時には警察当局の弾圧とぶつかり、暴動に発展することもあった。
一方で、この人種問題が大西洋を隔てた北アメリカ東沿岸の大都市にも横たわっていることは、周知の通りだ。そのような状況下で、1970年代にニューヨークやフィラデルフィアで生まれたのが、グラフィティを含むヒップホップ・カルチャーだった。海の向こうの若者たちのエネルギッシュな新しい表現はロンドンを経由することなく、直にブリストルに伝播し、その土壌の中で独自なスタイルを編み出してきた。それが、ブリストル・アンダーグラウンド・カルチャーと言って良いだろう。
BLMとブリストル
アーノルフィニから中心部に向かって、歩いて10分ほどのところに、街路樹が生い茂った幅の広い歩道がある。その中央には、ブリストルの偉人たちの銅像が立ち並んでいる。2020年、そのうちのある像が市民によって倒された。ジョージ・フロイド事件をきっかけに世界的に広がったBLM(ブラック・ライブズ・マタ−)運動の中で、同様の出来事が連発した事は日本でも報道された。
倒された像は18世紀の裕福な商人かつ政治家、エドワード・コルストン卿を象ったものだ。彼は晩年に慈善活動を行ったため、公道の名前になったり記念碑が造られたりして、レガシーが残されわけだが、歴史を検証すればコルストンは奴隷貿易商人だった。コルストン像の撤去を巡る議論はすでに1990年から起こっていたが、BLMで時代の勢い乗り、ボトムアップの動きで、とうとう正式に撤去されることになったのである。

ジョージ・フロイド事件が起こった時、バンクシーは次のようなコメントを出した。
「はじめは黙っていた方が良いかと思った。(中略)でも、これは自分の問題なんだ」
バンクシーのインスタグラムより
ここでバンクシーが「自分の問題」と言うのは、彼がブリストルの出身であり、その負の歴史に対して、自らに引きつけて思慮しているからに他ならない。
ブリストルにはたくさんのバンクシーが
そのような過去を持ったブリストルは、今もさまざまな人種民族が共存する多民族都市だ。かつてコルストン像が立っていた場所から15分ほど北東に歩くと、ストーククロフト通りというエリアに入っていく。そのあたりは、特に有色人種やアイリッシュが多く住む地区で、これまで何度も平等と人権を訴えるデモ活動がおこり、時に暴動に発展した。地元民が食材や生活品を売る店が軒を並べ、所々に小さなカフェやインディペンデントショップが点在し、人々が助け合いながら生活している様子が伺える。バンクシーのブリストル時代の最後の代表作《マイルド・マイルド・ウエスト》(通称)は、そんな場所にある。バンクシー以外にも、たくさんのストリートアートやグラフィティで溢れている。


いや、この通りだけが特別なのではない、ブリストルには至るところに、そのようなコミュニティー精神を持つエリアがあり、グラフィティやストリートアートが色鮮やかに街を飾っている。バンクシーは、もちろんブリストルのヒーローだ。しかし、この街を自分の足で歩いてみれば、そのバンクシーも「ブリストル」という街のカルチャーを育ててきたアクターの1人に過ぎないことが良く分かるだろう。世界的に有名なアーティストになった今も彼は、自分を生んだ街に帰ってきては、路上に作品を残していく。


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【PROFILE】吉荒夕記
1959年生まれ。2007年ロンドン大学大学院美学学部卒。学術博士取得。大英博物館アジア部門にてアシスタント・キューレターとして勤務。2012年、ロンドンを拠点にアートローグを設立。文化の旅の提案やコーディネート業をしながら、ミュージアムにて在英邦人向けに歴史・美術史を教える。また、ミュージアムの社会的な意義やストリートアートのメディア的な役割に関心を寄せ、執筆活動を続ける。主著『美術館とナショナル・アイデンティティー』(2014年/玉川大学出版部)、『バンクシー:壊れかけた世界へ愛を』(2019年/美術出版社)


文・写真:吉荒夕記