
【特別連載】ロンドン発信、バンクシー本の著者が見た現代アート<5>ボーダレスな表現が多文化社会に問いかける:イサム・ノグチ展
あの覆面アーティストを街の文脈から読み解いた『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』の著者・吉荒夕記の連載記事。ロンドンを知り尽くしアートや文化の旅づくりも手掛ける筆者が見た、アートの最前線とは。
ロンドンのバービカンアートギャラリーで開催中の「イサム・ノグチ展」。そこには、モノと空間と人が織りなす詩がある。日米のダブル・アイデンティティーをもったノグチの作品は、ジャンルを超えて、多文化社会のロンドンに住む人々に問いかけてくる。
薄暗い展示場に入って、いきなり足が止まった。目を奪われたのはひとつひとつの作品ではなく、むしろ展示空間全体にだ。床に直置きされたり、天井から吊るされたりと、さまざまな形をもつ明かり。あるいは、さまざまな素材を使った彫刻たち。明かりが生み出すそれらの影たちが、コンクリートの空間のあちらこちらに点在している。歩をすすめ、角度を変えてみれば、新たな空間が生まれる。その全体がまるで、一鑑賞者であるわたしの動きに連動する詩のようだった。

ここは、ロンドン、バービカン・アートギャラリーで開催中の「イサム・ノグチ展」の会場。ノグチの仕事で、最も世に知られた作品といえば、日本の提灯に着想を得た紙の明かりや流線型のシンプルな家具だろう。だが、彼が創り出すものはインテリアにとどまらず、彫刻、舞台美術、遊園地、公園、庭などのランドスケープデザインと実に多彩だ。ジャンルの境界を超越したノグチの自由な発想や表現を、この展覧会はみごとに体現している。
「ダブル」という生い立ち、ボーダーレスな表現者へ
フレキシブルな思考、既成概念に対する挑戦の背景には、彼の生い立ちが関係するかもしれない。イサム・ノグチ(1904−88)は、日本人の父とアイルランド系アメリカ人の母のもとに生まれた、いわば「ダブル」(※)である。アメリカ・ロサンゼルスで生まれ、幼少期を日本で育ち、アメリカで高等教育を受けた。持って生まれたアイデンティティーに対する葛藤は、彼が生き抜いた時代が大戦(第二次世界大戦中、強制収容所に入所体験をもつ)や冷戦の時代だったからこそ、さらに深いものだったに違いない。アメリカの美術学校を卒業後、自らへの問いの答えを探すように世界へと旅に出た。フランスの彫刻家・ブランクーシに師事したこともあったが、師匠の元を離れた後は、自分自身の表現に対する旅を続け、その結果が、ボーダレスな表現哲学として成熟していく。
思考に束縛がないからこそ、ノグチの関心は彼が作り出すモノをも超える。「わたしに興味があるのは、スペースだ。その周りで動く人々の動きにもね。その間には何かマジックがあるのさ」と、ノグチは言う。会場という空間とひとつひとつの作品がつくる関係、モノとモノの間に生まれる新たな空間、モノの周りを動く人々とその間にできる宇宙。そこには直線と曲線、光と影、硬いモノと柔らかいモノ、重力と浮揚、緊張と緩和が織りなすハーモニーがある。それが、展示会場を訪れた瞬間に心をつかんだ美しさの根源ではないか。


見れば、展示室にはタイトルや制作年を示すラベルがない。これは当展の担当キュレーターが意図した結果だという(その代わりに手元で見れるようなカタログがある)。なぜなら展示構成の根幹には、スペースとの関係を重視するアーティストの姿勢に対するリスペクトが横たわっているからだ。また、会場には、彼がアメリカのコンテンポラリー・ダンスの巨匠マーサ・グレアムらとコラボレートし、その舞台美術を担った時の映像や、彼がデザインした遊園地の模型や実際の写真なども並び、ノグチの仕事の全貌をみせている。


遊園地の映像が流れる展示風景
会場の目立たないところに、あの有名なノグチの低いテーブルと紙のランプが、さりげなく置かれてあった。まるで、「あなたが知っているステレオタイプから入ろうとしないでください。ノグチの世界はもっと広く、深いのですよ」といっているようだ。しかし、展示全体を通してノグチの世界観を理解したおかげで、アート作品だけではなく、日常的なインテリアにもノグチの空間認識が根付いており、だからこそ人々の住まいの中、心の中で美しく息づいていることを改めて気付かされたように思う。

20世紀前半、アイデンティティーの悩みを抱えつつ、その問いから自分の表現を見出していったイサム・ノグチ。旅を続け、境界を超えた作品をつくってきたからこそ、もし自分が何かに属すとするなら、それは「Global Citizen ( 世界市民)」であるという答えを見出したのだろう。21世紀、ロンドンに住む人口の半分は移民である。アジアとヨーロッパのダブルであるノグチのアートが、国籍、民族、宗教、ジェンダーなどの枠組みを超えて、多くの来館者に響くことを期待したい。

※「ダブル」:異人種間に生まれた子供に対して使用されてきた「ハーフ」や「混血」が、差別的な表現として見直され始め、それに変わる表現として登場した言葉。
前回の連載記事はこちら↓
【PROFILE】吉荒夕記
1959年生まれ。2007年ロンドン大学大学院美学学部卒。学術博士取得。大英博物館アジア部門にてアシスタント・キューレターとして勤務。2012年、ロンドンを拠点にアートローグを設立。文化の旅の提案やコーディネート業をしながら、ミュージアムにて在英邦人向けに歴史・美術史を教える。また、ミュージアムの社会的な意義やストリートアートのメディア的な役割に関心を寄せ、執筆活動を続ける。主著『美術館とナショナル・アイデンティティー』(2014年/玉川大学出版部)、『バンクシー:壊れかけた世界へ愛を』(2019年/美術出版社)


文・写真:吉荒夕記