
東京で開催中「ゲルハルト・リヒター展」を深く鑑賞するヒントとは?展示空間に浸り「見ること」に戯れる
ロンドン発信、バンクシー本の著者が見た現代アート#18
あの覆面アーティストを街の文脈から読み解いた『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』の著者・吉荒夕記の連載記事。ロンドンを知り尽くしアートや文化の旅づくりも手掛ける筆者が見た、アートの最前線とは。
世界が注目するドイツのアーティスト、ゲルハルト・リヒター。彼の生誕90周年を記念する展覧会が東京で開催中だ。リヒターは、写実的な油彩画からカラフルなアブストラクト絵画、ガラスの立体作品と、表現形態の幅の広いことで知られている。展示会場にはその多様な作品が混在しているが、しかし不思議に調和のとれた統一感がある。そこには、リヒターの展示空間に対する強いこだわりがあるからだ。
東京の展覧会に行ける人が羨ましい
6月、国立近代美術館で「ゲルハルト・リヒター展」が始まった。現代美術を代表するアーティストによる、東京では初の大型個展として注目を集めている。ロンドン在住のわたしは、コロナ規制もあって日本に飛んで観に行くことが叶わず、日本に住むみなさんがとても羨ましい。そんなふうにボヤくのも、数々の作品との出会いを通して、いつの間にかわたし自身がリヒターのファンになっていたからだと、今更ながら気づく。
しかし、これまでわたしが見たのは、他のアーティストの作品と並べられた単品か、一つの展示室に同テーマの作品が複数飾られるものだった。例えば、テートモダンの「アブストラクト・ペインティング」やアメリカのニューヨーク郊外にあるDia Beacon (ディア・ビーコン)ギャラリーの「グレイ・ミラー」シリーズの4作品など、セットで展示されたもの。それはそれで大変印象深い出会いだ。

テートモダンでの展示風景「アブストラクト・ペインティング」シリーズ
出典:https://www.tate.org.uk/

Dia Beaconでの展示風景「グレイ・ミラー」シリーズ(筆者撮影)
ところが、今回の日本での大回顧展では、写真をもとにした具象画「フォト・ペインティング」や、多彩な色のカラーチップが組み合わされた「カラーチャート」、写真の上に絵の具を塗り重ねた「オイル・オン・フォト」、モノクロの絵の具が画面を覆う「グレイ・ペインティング」、ガラス作品など、100点に及ぶ多様な表現形態の作品が一堂に会しているのだ。
多くの識者がすでに書いているように、アプローチは違うけれど、どの作品も主たるメッセージが「見ること」に対する根源的な問いであるという点で一致する。だから、彼の広範な作品群を一堂にみてこそ、リヒターのメッセージがさらに深く伝わるのではないかと思うのだ。やはり、羨ましい!

ゲルハルト・リヒター展 展示風景《モーターボート(第1ヴァージョン)》(1965)
ゲルハルト・リヒター財団蔵 © Gerhard Richter 2022 (07062022) (撮影:ANDART編集部)

ゲルハルト・リヒター展 展示風景《4900の色彩》(2007)
ゲルハルト・リヒター財団蔵 © Gerhard Richter 2022 (07062022)(撮影:ANDART編集部)
ニュルンベルク新美術館の椅子に座って気づいたこと
そんななかで、ドイツに行けば、小規模ながら別のジャンルの作品群が混在するリヒターの展示室があるという情報を得たので、急遽訪れることにした。場所は2000年に開館したニュルンベルク市にある新美術館。1957年から2003年までに制作された作品28点が収蔵されている。ドイツのアートコレクターのボックマン夫妻が、リヒター作品としては世界で3番目に大きいコレクションをこの美術館に寄贈したという。

ニュルンベルグ新美術館外観(筆者撮影)
天井が高く、広々とした展示室の白い壁には、期待通り、カラフルなアブストラクト作品からモノクロ写真のような具象絵画まで、10点の作品が一望できるように飾られていた。奇妙なことに、こんなに手法が異なり、制作年についても35年の幅があるにもかかわらず、なぜかバラバラな感じがしない。題材についても、風景画、人物画、静止画、完全なアブストラクトと多彩なのに、アーティストの世界観を展示室全体が作り出している。部屋の中央にあったベンチに腰掛け、ちょっとずつ角度を変え、360度すべての作品を眺めてみると、なんだか私自身がリヒターの眼孔の中に入っているような、不思議な感覚を覚えた。

ニュルンベルグ新美術館の展示風景(筆者撮影)
文字では表現できないこと
なぜそう思ったのか。どの作品も意図的にぼかされており、「不確実さ」という統一感がまず挙げられる。また、長い制作活動で一貫して問いかけてきた「見る」とは何か、という深淵なテーマが通底していることも重要だ。しかし、ここで注目したいのは、リヒター自身が展示空間を注意深くプロデュースしていることである。
これまでロンドン、ニューヨーク、パリと世界各地の美術館で、大掛かりなソロ・ショーが開催されてきた。どの展覧会でも、リヒターはアシスタントとともに、当該展示室の正確な模型と展示予定の作品を同比率に縮小した写真(裏にマグネットをつけたもの)を用意して、その模型の上にミニチュア作品をおきながら、どの作品をどの位置に飾るのか、高さや光の具合はどうかなど、入念に検討を重ねるのである。実際の展示準備の段階では、リヒター自身がその場に出向いて、照明から椅子から、会場全体をチェックし、細部にわたる指示をだすという。だからこそ、展示された作品同士が干渉しあい、響き合い、展示室の空間の中で見事に融合するのだろう。
だからといって、ひとつの空間全体でモノをいうインスタレーションを目指しているわけではない。リヒターの作品は、そのひとつひとつが芸術としてきちんと完結している。どこで制作の終止符を打つのだろうかと、鑑賞者が疑問に抱くようなアブストラクト作品でさえ、「出来上がったという瞬間が、向こうからやって来る」とリヒターはいう。つまり、単体の作品はそれだけで完結しつつも、単品の集合体である展示空間全体もまた、「見ること」にまつわるさまざまな側面― 残像、表面性、欲望、固定概念、歴史などを、わたしたちに総合的に想起させるのである。

《アブストラクト・ペインティング》(1991)ニュルンベルグ新美術館所蔵(筆者撮影)

《骸骨と蝋燭》(1986)ニュルンベルグ新美術館所蔵( 筆者撮影)

ニュルンベルグ新美術館の展示風景(筆者撮影)
リヒターのテーマはたしかに、哲学的だ。だけれど、難解な哲学書を読む時のように、受け手の思考がこんがらがったり、重くなったりしない。むしろ軽やかに、かつ開放的にそのテーマを受け取ることができる。たとえメッセージが人間性の根源を問うていても、あるいは見る者に現代アートを読み解くリテラシーがなくても、ガラス越しに歪んだ作品をみたり、映り込む自分をみたり、彼の眼孔になったり、あるいは自分自身のレンズに入ったりと、感覚的に遊ぶことができる。リヒターというアーティストは「文字では表現できないこと」を、ヴィジュアルアートで問いかけ、あとは見る者に委ねるのである。

ニュルンベルグ新美術館の展示風景 (筆者撮影)
東京で体験してもらいたいこと
東京での展覧会は、リヒターが高齢のため、展示構成について大まかな指示は出しても、細部については美術館側に任されたという。しかし、ネット上でアップされた写真で会場を見てみると、制作順に展示されているわけでも、アブストラクト絵画コーナーやガラス作品コーナーというように区分けされているわけでもない。それらの作品は混在しているのと同時に、詩的に調和のとれた空間がつくられている。これまでのリヒターの活動を十分理解した学芸員だからこそ、彼の意図を汲み取り、そのような展示空間を造ったのだろう。さらに、ツイッターなどのコメントを斜め読みしてみると、決められたルートのない展覧会場で人々は自由に動き回り、ゆっくりその空間を楽しんでいる様子が知れて、遠くに住むわたしも嬉しくなった。
ニュルンベルクは一つの展示室だったが、東京での展覧会はいくつもの部屋が連なっている。わたしがドイツで体験したようにベンチに座って、四面の展示壁をぐるりと見渡すだけではなく、東京の来館者は歩き回る。足の動きや頭の向きと、目に映るものは連動するに違いない。数秒前に見た残像は、今この瞬間にみている絵に重なることだろう。他の来館者もあなた自身も作品の一部になる。そうした一連の「見る」という行為を、美術館の現場でぜひ体験していただきたいと思う。
▼「ゲルハルト・リヒター展」レポートはこちら
▼ 前回の連載記事はこちら


【PROFILE】吉荒夕記
1959年生まれ。2007年ロンドン大学大学院美学学部卒。学術博士取得。大英博物館アジア部門にてアシスタント・キューレターとして勤務。2012年、ロンドンを拠点にアートローグを設立。文化の旅の提案やコーディネート業をしながら、ミュージアムにて在英邦人向けに歴史・美術史を教える。また、ミュージアムの社会的な意義やストリートアートのメディア的な役割に関心を寄せ、執筆活動を続ける。主著『美術館とナショナル・アイデンティティー』(2014年/玉川大学出版部)、『バンクシー:壊れかけた世界へ愛を』(2019年/美術出版社)