
ピカソの情熱的な表現の源泉をみた!スペイン・マラガのイースター祭:現地報告
ロンドン発信、バンクシー本の著者が見た現代アート#16
あの覆面アーティストを街の文脈から読み解いた『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』の著者・吉荒夕記の連載記事。ロンドンを知り尽くしアートや文化の旅づくりも手掛ける筆者が見た、アートの最前線とは。
パブロ・ピカソが描く、ドラマティックな顔。巨匠の力強い表現の血肉になったのは、故郷アンダルシア地方のマラガの土地に根付いた文化だった。
ゲルニカと泣く女
画面いっぱいに女の顔。尖った目からは大粒の涙がこぼれ落ち、ハンカチを握りしめ、歯を噛みながら、慟哭している。魂の底から嗚咽が聞こえてくるようだ。表情だけではなく、黒く太い直線やギザギザ、赤・黄などの強い原色に縁取られ、口の周囲だけがモノクロというコントラストからも、女の激しい感情がまっすぐ伝わる。
ピカソが描いた《泣く女》。モデルはドラ・マールといい、ピカソの当時の愛人かつミューズだった。実は、彼女自身が写真家、シュルレアリスムのアーティストであり、激しい気性の持ち主だったという。

よくみると、瞳の中に青い飛行機が飛んでいる。戦闘機だ。すると、とたんに戦争をテーマにした絵なのだと気づく。《泣く女》は、ピカソの代表作《ゲルニカ》と同時期に描かれ、パリ万博(1937)での初公開ではその2点が揃って展示された。《ゲルニカ》は、スペイン市民戦争(1936〜39)の際に、ドイツ空軍によって空撃を受けたゲルニカ市民の惨憺たる様子を描いたものだが、《泣く女》もまた、マールをモデルにしながら、犠牲者となった一般市民を表しているのだ。
《泣く女》は小作ながら、ピカソのキャリア上、重要な作品だといわれる。当作は、世界三大現代美術館のひとつであるロンドンのテートモダン美術館が所蔵する。在英の筆者にとっても身近な作品だ。

第二次世界大戦への引き金になったスペイン市民戦争が勃発した時、ピカソはすでに世界的な画家になっていた。だが当初は「自分は報道写真家ではないから、戦争を題材に作品を描こうとは思わない」と語ったという。しかし、ピカソをこのテーマに向かわせたのは、依頼を受けたからというより、戦火を浴びたのが故郷スペインの地方都市であり、犠牲になったのが同郷の市民だったからだろう。
ドラマチックな彫刻像
ゲルニカはイベリア半島北岸の港町。ピカソの生誕地はその反対側、地中海に面したマラガだ。今年のイースターの時期(4月のはじめ)、筆者ははじめてマラガを訪れる機会を得た。街並みを歩き、教会を訪れ、なにより街をあげてのイースターの祭事を体感したおかげで、彼の作品のスペイン的特徴、アンダルシア的/マラガ的な特徴をよく理解することができた。
アンダルシア地方のどの街でも、独特なイースターのフェスティバルが執り行われる。中でもマラガはその規模で他を秀逸するという。ホーリー・ウィークの中心は、イエス・キリストが十字架に架けられた聖金曜日。そして復活したとされる聖日曜日だ。最も重要な祭事は、キリスト像やマリア像を載せた巨大な山車が旧市街を練り歩く行進である。

頑丈な体格の男たちが山車を背負う。さまざまな集団が、山車の前や後ろを援護しながら、細い路地を練り歩く。豪華な衣装を身につけた司祭たち。大きな三角帽をすっぽり被り、巨大な蝋燭をもって歩く人々。赤い衣装をつけ、お香を撒きながら歩く子供たち。太鼓や管楽器などをもって進む楽団。沿道には行進を見ようと人垣ができる。コロナが猛威を振り撒いていた年は中止されていたから、その反動は大きく、家々は美しく飾り付けられ、季節の食べ物屋が並び、街全体がイースター一色になっていた。


ところで、その山車の上の像だが、とてもドラマチックに表現されているのに驚かされた。穏やかな仏像に見慣れた日本人としては、ちょっと誇張しすぎではと思うくらいだ。十字架にかけられたキリスト像は、悲痛と悲哀と孤独という複雑な感情が入り乱れている。片や復活したキリスト像は、死に打ち勝ち、永遠の命を得て、文字通り、光り輝いている。聖母マリア像も同様に、息子を亡くした母の悲哀が魂の底から表出している。その陰鬱な表情が、豪華な衣装と実に対照的だ。


マリアの像は祭日だけのものではなく、実は至るところにある。古い街の角ごとに陶磁プレートがはまっており、悲しみに打ちひしがれた聖母が描かれている。教会の中の絵画や彫刻にも、同じような感情的な表情が並んでいる。カトリック信仰の強いスペインでは、「悲しみのマリア(Beata Maria Virgo Perdolens)」という一般名詞があるくらい、広く普及した「マリア美術」なのである。
そして、ふと気づくのだ。なるほど、ピカソの《泣く女》の根底には、画家が生まれ育った文化がしっかり根付いているのだと。


ピカソに影響を与えた闘牛や古代の目のシンボル
ピカソの作品にみる、スペイン的、アンダルシア的なのはそれだけではない。マラガ旧市街の中心地には、ピカソが生まれ、10歳まで育った家がミュージアムになっている。そこにはピカソ家にあった家具調度品、やはり画家で美術の教師だった父の絵画などが陳列されおり、巨匠の文化的ルーツを理解することができる。

マラガの歴史は古く、古代ローマ以前の紀元前8世紀まで辿るという。現在のレバノンを拠点とし、地中海貿易で栄えたフェニキア人が作った港町なのだ。彼らが使った船には目が描かれていたという説があり、実はピカソの作品の中にも、それを彷彿とさせるイメージがある。

闘牛のモチーフもピカソの作品によくみられるが、闘牛といえばスペインというくらい代表的な文化だ。動物愛護や環境の問題から、今でこそ衰退しているものの、ピカソが子どもの頃はたいへん身近な国技だった。アンダルシア地方を旅すると、どんな小さな街にもかつて闘牛場だった円形の土地が残っているのを目にする。
ピカソの血には、闘牛の表面的なモチーフだけではなく、その奥にある生と死への考えが流れているのだろう。そして、それは血を流すキリスト像や、慟哭するマリア像を表現する文化と繋がるのかもしれない。


現在、熊本市ほどの大きさのマラガには、ピカソの生家、ピカソ美術館、歴史博物館兼美術館、ポンピデューセンター・マラガなど、20以上の美術館があり、街にはストリートアートが溢れている。2016年には欧州文化都市の候補にもなったという。マラガがピカソを生み、ピカソがマラガの新しい文化を育てているといえよう。
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【PROFILE】吉荒夕記
1959年生まれ。2007年ロンドン大学大学院美学学部卒。学術博士取得。大英博物館アジア部門にてアシスタント・キューレターとして勤務。2012年、ロンドンを拠点にアートローグを設立。文化の旅の提案やコーディネート業をしながら、ミュージアムにて在英邦人向けに歴史・美術史を教える。また、ミュージアムの社会的な意義やストリートアートのメディア的な役割に関心を寄せ、執筆活動を続ける。主著『美術館とナショナル・アイデンティティー』(2014年/玉川大学出版部)、『バンクシー:壊れかけた世界へ愛を』(2019年/美術出版社)