
バスキアの家族がつくったバスキアの大回顧展:ニューヨークからの最新報告[2]
ロンドン発信、バンクシー本の著者が見た現代アート#14
あの覆面アーティストを街の文脈から読み解いた『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』の著者・吉荒夕記の連載記事。ロンドンを知り尽くしアートや文化の旅づくりも手掛ける筆者が見た、アートの最前線とは。
4月、ニューヨークのスターレット・ライで始まった「ジャン=ミシェル・バスキア:喜びの王」展は、今年最注目のアート展といわれる。作品数の上でもバスキアの家族が手がけた展示という意味でも記念碑的なイベントだ。それをみることを目的に、私も久しぶりにニューヨークに飛び、初日の翌日に訪れることができた。熱の冷めやらぬうちに、展覧会の様子を日本の読者にもお届けしたいと思う。
バスキアの家族によるバスキアの大回顧展
「ジャン=ミッシェルのたくさんの作品を、世の人々にみせるべき」
という家族の会話から、『ジャン=ミシェル・バスキア:喜びの王』展の企画が始まったと、バスキアの妹たちはいう。
これまで世界中でたくさんのバスキアの展覧会が開催されたが、この展示がこれまでと根本的に異なるのは、200点もの展示作品がすべて彼の家族に残されたもの(バスキアの父が創設したバスキア財団に管理されている)、つまり未公開作であること。そして、この展覧会が二人の妹たちによって作られたことだ。従来の展覧会のように、アカデミックな側面からの検証というより、親密な視点からの内容・構成になっており、作品とバスキアの人間性のオーガニックな繋がりを知ることで、わたしたち鑑賞者もひとつひとつの作品により思いを寄せることができる。
妹たちは5年の歳月を費やして、兄が残した作品はもとより、彼のスケッチやノート、家族写真、所蔵本、好きな音楽、アフリカの彫刻のコレクションなどをかき集め、記憶をたどり、改めてバスキアのアート活動の意味を考え直し、展覧会をつくった。会場に設置されたビデオでは、家族メンバーがバスキアの思い出や作品づくりのエピソードを語る。何より、展示作品の解説が妹たちによって主体的に書かれているのは、とても興味深い。

展示はまず、バスキアの自画像や彼の足跡をたどるニューヨークの地図から始まり、アイデアの源泉だった十代の頃のノートやメモのコーナーへと続く。バスキアの子供の頃の家の再現もある。1970年代のアメリカ中流黒人家庭の典型的なインテリアが施され、父親の趣味であり、バスキアにも影響を与えたジャズが流れている。

ジャズの余韻は、1982年頃の大作が並べられた部屋へ響いていく。妹たちによれば、この年は兄にとってもっとも制作意欲の高い年だった。初めてちゃんとしたアトリエを手に入れ、大作が描ける空間、制作に集中できる環境ができたからだという。
高校(※)を中退後、家を飛び出し、路上を寝城にしたり、友人や恋人の狭いアパートに転がり込んだりした時期は、自分の生活空間にあるあらゆる媒体― 室内壁、冷蔵庫の扉、タイヤ、彼女のドレスなど、に絵を描いたり、詩のようなものを書いたりしていた。そしてもちろん、ニューヨークのストリートの外壁やシャッター、看板にも。彼のクリエイティブな意欲はとどまるところを知らなかった。その精力的な活動や才能が、やがてアート・ディーラーの目にとまり、制作に専念できるようにと、空倉庫が提供されたのである。


カオスが生み出す作品
1983年、すでにアート界のスターになっていたバスキアは、アンディ・ウォーホルの紹介で、マンハッタンのGreat Jones Streetにアトリエを移す。そこが1988年に亡くなるまでの彼の制作と生活の拠点になった。今回の展示ではそのアトリエの再現もあった。
それはカオスな空間だ。再現されたアトリエでは、バスキアが好きだったジョン・レノン、クイーンの曲やジャズ、ヒップ・ホップ音楽が流れ、テレビスクリーンには彼が観ていたドラマが映しっぱなしになっている。当時のバスキアを知る人物は、制作中バスキアはモーリス・ラヴェルのボレロを大音量でかけながら取り組んでいたと語る。趣味の広さもさることながら、音楽や大衆文化も彼のアイデアの源泉だったのだろう。

書物も制作の刺激材だった。床やテーブルの上には、たくさんの本が積まれている。ピカソの画集やアフリカ芸術の本、マイルス・デイヴィスの伝記、解剖学関連の書物、歴史書など、20代はじめのアーティストの知識の広さは驚くばかりだ。同様に、テーブルや棚には、バスキアが集めたアフリカの彫刻やおもちゃが脈略なく並んでいる。愛用のレインコートや靴、ワイングラス、マルボロの箱なども散財し、生活の匂いがする。
幼少時に住んでいた家の再現が、新しいモノを集めて当時の様子に似せて作られたものであるのに対し、ここにあるモノはバスキアが実際に所持していたものである。さらに重要なのは、再現されたアトリエで、無造作に床に並べられたり、壁に掛けられたりする作品がどれもホンモノということだ。
アートの展覧会でよくみかける「〇〇の再現」という展示は、個人的に好きではない。集中してみたいのはひとつひとつの作品なのに、そういう補助的なものは逆に邪魔になってしまうことが多い。しかし、今回の再現は、まるでバスキアが今もそこに生きていて、制作の途中であるかのような、生き生きとした親密さを覚えさせる。制作のインスピレーションがその空間に詰まっており、仕上がった作品とそれを生み出す環境が切っても切れない関係にあることがよく理解できるのだ。


思い返せば、バスキアの一作品の中にも、伝統的な西洋美術に対する深い知識から、音楽の影響、誰かが口にした他愛もないフレーズ、黒人の人権を問題にしたニュースなど、さまざまな要素が詰まっている。バスキアのユニークさは、一見バラバラな物事の断片が有機的につながり、ポエティックな空間を生み出していることにある。アーティストのそうした作風は、アトリエのこのような混沌、いや、バスキア独自の小宇宙から生まれたのだと改めて気づかされた。こうしたことも、展覧会の企画が肉親によるものだったからではないだろうか。
BLMの時代に響くバスキアのメッセージ
展示は、バスキアの制作活動全体における主テーマ、人種差別問題・人権問題に関するコーナーへと展開する。そのなかで、私の目をひいたのは、《無題(Edgar)》という横長の作品だ。オレンジ色のバックに濃紺の単純な頭がふたつ。中央には「4つの頭部の習作(STUDY OF FOUR HEADS)」と書かれた文字。解説によると、それは17世紀のオランダの巨匠、ピーテル・パウル・ルーベンスが描いた作品のタイトルを指すという。ある黒人のモデルを4つの角度から描いた油彩画だ。


ベルギー国立美術館蔵(引用元)
振り返れば、美術史において黒人が描かれることは稀なことだった。対象になった場合でも、たとえば、ヨーロッパの貴婦人に侍る従者など、添え物的な扱いに限られていた。ルーベンスの習作も、もっと大きな作品制作の一部に使うために、黒人のモデルを目の前にした練習だったのだろう。この大画家にたとえ差別意識などなかったにしても、肌の色をどう表すか?鼻の形は?と、黒人の特徴を観察する眼差しがあったはずだ。
バスキアに話を戻すと、彼の作品には言葉や数字があることが多いのだが、一見、謎解きのようなそのような記号にも絵との結びつきが隠されている。《無題(Edgar)》の下部にも、「ARBLCKML2260」という文字がある。家族の解説によれば、数字はバスキアの誕生日であり(1960年12月22日生まれ)、文字列全体は囚人の番号づけを思わせるという(BLCKは黒人、MLは男性の略だろうか)。いずれにしても、黒人としての自分のアイデンティティーを表現しているのは間違いない。興味を掻き立てる詩のような記号を使い、イメージと響き合わせることで、美術史における黒人の人権を問うているのだ。
ところで、美術史において、描かれる対象だけではなく描く主体、つまりアーティストとして黒人が社会に認められることも、まずありえなかった。アーティストは「白人」の「男性」であるという既成概念が深く根付いていたからだ。絵が好きだった母親の影響で、子どもの頃から西洋美術に精通していたバスキアはそのことをよく知っており、憤りを感じていたことだろう。
そのような状況で、バスキアのデビューは、黒人の新星アーティストというセンセーショナルなものであり、社会はなかば奇異の目でバスキアの登場をみたのではないか。世間にもてはやされた事はバスキアにとって大成功でもあると同時に、強いプレッシャーでもあった。そして、アート界に入れば入るほど、その本質がいかに白人至上社会であるかをさらに強く感じ取り、自分の立ち位置に不安や矛盾を感じたことだろう。そのような中でどう生き抜いていくのか、若い野心とストレスの板挟みで、ドラッグにますます依存するようになり、最終的には薬物過剰摂取で命を落とすことになる。弱冠27歳の若さだった。
展示の最後、バスキアの妹たちは、兄、ジャン=ミッシェルが亡くなって30 年経った今も、同じ社会問題が蔓延っていることを嘆く。展示構想を始めた時には、5年後になって、まさか、ブラック・ライブズ・マターが世界的なムーブメントになるとは思ってもみなかっただろう。しかし、だからこそ、今この時に、家族によるバスキアの展覧会が公開されたことの意義はとても大きいと思う。


(※)高校・・・マンハッタンにあるシティー・アズ・スクールという高校で、因習的な学校には馴染めない生徒たちのための高校
バスキアの路上時代についての記事はこちら
前回の連載記事はこちら


【PROFILE】吉荒夕記
1959年生まれ。2007年ロンドン大学大学院美学学部卒。学術博士取得。大英博物館アジア部門にてアシスタント・キューレターとして勤務。2012年、ロンドンを拠点にアートローグを設立。文化の旅の提案やコーディネート業をしながら、ミュージアムにて在英邦人向けに歴史・美術史を教える。また、ミュージアムの社会的な意義やストリートアートのメディア的な役割に関心を寄せ、執筆活動を続ける。主著『美術館とナショナル・アイデンティティー』(2014年/玉川大学出版部)、『バンクシー:壊れかけた世界へ愛を』(2019年/美術出版社)